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小学生の頃、長崎の造船所から、私が住んでいる市内
の造船所に転勤された先生がおられ、私が通っていた
道場に来られるようになりました。

その先生は、初めて見る二刀流で、長い竹刀と短い竹
刀を振り回します。

初めはどのように対応していいかわからず、中途半端
な間合いに入ってしまうと短い竹刀で、私の頭を連続
して、パンパン打ってきます。

まるで太鼓を叩くように・・・。

小学生の頃、将来建設される東京武道館なんて関係な
いと思っていましたが、その後、この武道館で4段に
合格しました。

合格発表前後から、何度も、「竹刀を間違えて持って
行った人は、至急本部まで返して下さい。」と言うア
ナウンスが繰り返されていました。

そのアナウンスを聞いて、自分のこととは思いません
でした。

これまで、一度も他人の竹刀を間違えて持ち帰ったこ
とがなかったからです。

ところが、合格後登録料を納めて、着替える前に念の
ため、既に竹刀袋に入れていた竹刀を取り出したら、
自分の竹刀ではなかったのでした。

武道館に残っている人も疎らで、アナウンス後すでに
1時間以上経過していることから、もう返す相手も残
っていないだろうと思っていたら、まだおられました。

内心は怒っているのではないかと思いましたが、なぜ
かニコニコしていました。

相手も合格していたのかもしれません。

大学卒業後、剣道を再開したのは4年余りの海外勤務を
終えて、日本に帰国した30歳の時でした。

本社の大阪には剣道部がありましたが、東京にはなかっ
たので、大阪から転勤してきた先輩が、東京にも剣道部
をちょうど作ったところでした。

その連絡を帰国直前にもらい、入部の意思を伝える前に
会社名が入った垂ネームを既に作ったとのことでした。

入部当初、東京にいる千数百人の社員の内、剣道経験者
がわからず、部員が少なかったものの、人事部の社員が
入部してから、社員の履歴書に記載されている特技を調
べて勧誘を進めていったところ、5チーム以上試合に出
場できる人数に増えたのでした。

小学生の時に全国大会に出場しましたが、会場内で
「東京武道館」を建設するための寄付金の呼びかけ
がありました。

建設すると言っても、ずいぶん先の話で日本武道館
があるのになぜ「東京武道館」が必要なのかよくわ
かりませんでした。

そもそも当時兵庫県の田舎に住んでいた俺には、関
係ないと思っていました。

ところが20年後、4段の昇段審査に合格しましま
したが、審査会場は当時建設されて2年経った「東
京武道館」なのでした。

子供の頃は、稽古が激しかったので、左足の親指の付
け根がずっとパックリと割れていました。

バンドエイドを親指の付け根に巻きつけますが、稽古
を続けている限り傷口は塞がらず、稽古中に取れてし
まいます。

ところで、今では絶対に見かけないので、記憶から遠
ざかっていましたが、久し振りに親指の付け根が割れ
たので、バンドエイドの代わりに、テーピングをした
時に記憶が蘇りました。

それは、竹刀が稽古でささくれないように、竹刀をば
らして、1本ずつ物打ちの部分をテープで巻きつけてい
くのですが、透明なテープならまだしも、青や黄色の
ビニールテープで巻きつけるのです。

これは子供だけがやっていたのではなく、先生方も一
部やっていて、何の疑問も持っていませんでした。

しかしながら、当然稽古中そのテープが破れて、テー
プの粘着部分が、相手の面や小手にべっとりと付きま
す。

そんな訳で40年以上前の一時期でしたが、竹刀に「テ
ーピング」したことを思い出しました。

初めての全国大会は、恐らく初戦か2回戦位で負けま
した。

その後全国大会のことも忘れかけていたころ、当時2
冊購読していた「剣道日本」か「剣道時代」のどちら
かに、全国大会の記事が何枚かの写真入りで出ていま
した。

その写真の1枚になんと自分が、写っていたのでした。
写真の吹き出しのコメントには、「勝てるかな・・・」
とありました。

試合が始まる前に、高段者の先生方と稽古をするので
すが、面を持って一目散に、一番上座の先生の前に向
かいました。

しかしながら、わずかに別の選手に遅れてしまい、上
座から2番目の先生の前に座りました。

写真は、この稽古の前に先生方の前で一斉に整列して
正座黙想をしているところを写したものですが、私か
ら横の前列4人だけが写っており、私が目指した一番
上座の先生の前に座った選手は、写っていなかったの
でした。

優勝したわけでもないに、思わぬところを写されて少
し照れくさかったのでした。