本日 167 人 - 昨日 265 人 - 累計 316585 人
会長先生が剣道から離れて、既に20年以上が経過した年の春
再び剣道に係わる出来事がありました。

中学校に新入学をした長女が、驚く事に剣道部に入部したのです。

家族の誰かが薦めた訳ではありません。

各部活動の「部活紹介」を見学した彼女は、自分の意思で決めて帰宅しました。

彼女曰く「カッコいい」

防具を装着した先輩方が、凛々しく見えた様です。

当然マメな会長先生は、彼女が剣道部に在籍する三年間、試合・昇段審査等
仕事も顧みる事なく、応援と車出しに精を出しました。

そして中途半端に剣道経験のある会長先生は、長女に対し多少の剣道指導を
偉そうにしていました。

しかし自身が剣道を再開する気持ちは
「考えもしなかった」「さらさらなかった」そんな残念な会長先生なのでした。

中学入学と同時に部活動で剣道を始め、高校入学後も本意ではないまま
剣道部に入部しました。

しかし1年生の夏休みを前に、退部したのです。

大した理由でもなく、ここでお話する程のモノでは有りません。

帰宅部となった会長先生は、その後クラスの仲間と音楽バンドを
結成しました。
併せて、同学年の有志と草野球チームを立ち上げたのです。

バンドの活動は、池袋か赤羽にある楽器屋のスタジオで練習に明け暮れ
草野球はグランドハイツ(現在は光が丘団地)か、練馬駅前の野っ原
(現在は練馬区文化振興協会)で、高校の先生方チームと日曜日の度に
試合をする日々。

それなりに充実した高校生活を送りました。

ちなみに夏休み前に辞めてしまった剣道ですが、その年の秋に二段を
受審し、合格する事が出来ました。

それから25年、剣道の「け」の字もない生活でしたが、ひょんな事から
再び剣道界に足を踏み入れてしまった、会長先生なのでした。

「18歳から28歳頃まで、都内のライブハウスで音楽活動をしていた」
そんな過去がありますと、このブログに書いた事があります。

その歴史は18の時に六本木で始まり、新宿・渋谷・代々木・高円寺・銀座
自由が丘・江古田で、月に4~5本のライブを行っていました。

ある日ライブの打ち合わせの為、新宿南口の明治通り沿いにある
「NY Antiknock(現・Antiknock)」を訪れました。

スタッフとの打ち合わせも終わり、店を出て、地上に続く階段を上がると
突然

「おはようございます!」

大きな声が地下通路に響きました。しかもそれは三重奏で。

顔を上げると、そこに居たのは「コント赤信号」の三人。
大袈裟な表現ではありませんが、彼らは本当に緊張した面持ちで立っていた事を
今でも覚えています。

その日は打ち合わせだったのか、ライブがあったのか、定かではありませんが
会長先生を、店の関係者だと思ったのでしょう。

それに対し会長先生は、別に偉い訳でもないのに「おはよう」
と答えながら、彼らの間を振り向きもせずに抜けて行きました。

あれから30数年。
芸能の仕事では全くの敗者ですが、剣道をするリーダーをテレビで見る度
剣道では負けない様に頑張ろう!と、心秘かに思う会長先生なのです。

普段は東京武道館で行われる五段審査会ですが、会長先生が受審した年は
改装工事の為に、東京武道館は使用出来ませんでした。

一回目の審査会は、雪が降った翌日の江戸川区の体育館。
歩道に残ったアイスバーンに、そうとう苦戦しながら歩きました。

二回目の審査会は国立市で行われ、お陰様で合格を頂きました。

江戸川区の審査会での出来事、偶然八王子から受審する友人に出会い
彼から耳打ちをされたのです。

「芸能人が来ていますよ」

会場を見渡すと、真剣な顔つきで着替える「その人」を見付けました。

当時「炎の体育会TV」という番組で、剣道の団体戦に出場していた
コント赤信号のリーダー「渡辺正行」氏です。

リーダーの立会いは、しっかりと拝見させて頂きました。
そして見事、四段に合格。
その模様は、後日「炎の体育会TV」の番組内で放送されました。

懐かしいなあ・・・とまでは思いませんが、リーダーと会うのは
これが二回目。

最初の出会いは、なんと約30年前に遡るのでした。

中学・高校・大学を問わず、体育会系のクラブ活動には
歴史ある色々な決まり事が存在します。

「挨拶」もその一つ。

会長先生が在籍する高校剣道部にも、謎のまま終わってしまった
挨拶がありました。

当時会長先生は、JR山手線の大塚駅に住んでいました。

部活動が終わると、二つ先の駒込駅を利用する赤井先輩と
一緒に帰るのです。

先に降りる会長先生は、先輩に挨拶をしてから降ります。

体育会系ですから、当然大きな声で、しかも元気良く
発声しなければいけません。

「そーーーす!」

???

醤油でもケチャップでも、ましてや「マヨネーーーズ」でもありません。

「そーす」です。

毎日の様に後輩部員から「そーす」と叫ばれて、その後二つ先の駅まで
乗車する先輩は、居た堪れなくなったのでしょう。

ある日、会長先生に言いました。

「失礼しますでいいよ」

その数ヶ月後、退部してしまった会長先生には、その挨拶の意味を
知る事もないまま、現在に至るのでした。

番外「五段先生」

2016年01月25日
高校剣道部の顧問は、国士舘大学出身の金子先生でした。

先生は当時五段。

たぶん大学を卒業して、2~3年だったと思います。

稽古をいただいた時の記憶は、35年以上経った今でも鮮明に覚えています。

「竹刀が重い」

先生の竹刀捌きに自分の竹刀を思う様に動かす事が出来ず
ただただ打たれていました。

なので金子先生の指導稽古は、大嫌いでした。

残念ながら会長先生は、高校1年生の夏休み前に事情があり
剣道部を退部してしまったので、高校剣道の思い出は殆んどありません。

何年か前、その先生は定年を待たずに実家の農家を継ぐ為
退職されたと風の便りに聞きました。

「今でも剣道をしているのかな」と時折、思い出します。

あれ程イヤだった稽古なのに、何故かまたいただきたいと思うこの頃なのです。

会長先生の教室は、新校舎と呼ばれる建物の四階にありました。

その校舎の地下に降りると、右手に剣道場と柔道場
左手にはそれぞれの部室があります。

剣道部には時折、OBが訪れました。

OBがいらっしゃると部室内に雛壇を作ります。そして最上段に座って頂くのです。

会長先生は先輩に促され、必ず「歌」を唄わさせられました。

面白い歌を唄え、と言われるのですが、どんな歌が面白いのか・・・

しかめっ面のOBと先輩の視線を浴びながら、気まずい雰囲気を感じつつ
ただひたすらに、面白くない歌を唄ったのでした。

担任の先生は「名前と出身中学、在籍していた部活動」
を言う様、生徒に伝えました。

会長先生「剣道部でした」
担任先生「段とか持ってるのか?」
会長先生「はい、初段です」

その日の放課後、会長先生が帰り支度をしていると
担任の先生が教室を訪れました。

先生は無言で会長先生の腕を掴むと、有無を言わさず引き摺る様に
四階の教室から校舎の地下まで連行したのです。

高校入学後、初めて降りた校舎の地下に広がる光景は「剣道場」

まだ若い担任の先生は國士舘出身、剣道五段の体育教師だったのです。

甲子園出場の夢は入学早々に儚く終わりましたが
その一年後、野球部は夏の甲子園に出場を果たしました。

残念ながら会長先生は、甲子園のマウンドに立つ事は出来ませんでした。

しかしベスト8で終わる日まで野球部の応援に
甲子園のマンモススタンドに行く事は出来たのです。

高校までの通学は、乗り換えがありながら、たったの二駅。
夢と希望を胸に抱いて、第一希望の高校に入学が決まりました。

会長先生は夢を叶えるべく、顧問の先生に挨拶をする為
入学早々に職員室を訪れたのです。

会長先生「入部します!ヨロシクお願いします!」
顧問先生「中学の時は何部?」
会長先生「剣道部です」
顧問先生「剣道やればいいのに」
会長先生「野球がしたくて、この高校に来ました」

実はこの高校、家から近い甲子園出場経験のある高校でした。

この日を迎える為に、坊主頭にしました。
硬式グラブも硬式バットも、真っ白のユニフォームも買いました。
毎朝、ランニングと素振りを欠かしませんでした。

参考までに、この高校を卒業した有名人を紹介します。

「橋幸夫」「木の実ナナ」「つのだ☆ひろ」
いいとも青年隊「野々村真」(芸能活動が多忙で転校)
そして元広島東洋カープの「高橋慶彦」

準備万端で臨んだ、希望に満ち溢れた高校生活・・・の筈でした。

教室に戻り、担任の先生と新しい仲間達の自己紹介。
この自己紹介が、悲劇の始まりだったのです。

中学剣道部の活動は、週に2~3回だったと思います。

稽古にはしっかり出席しましたが、何故か試合の記憶が全くありません。
しかも先輩の名前と顔は二人しか覚えておらず、後輩は2個下の弟以外
すっかり忘れてしまいました。

部活動で覚えている事といえば・・・

・ 時々体育館が使えず、屋上で稽古をした
・ 裸足で校庭をランニングして、先生に叱られた
・ 後輩の女子部員との稽古中、鍔競り合いの時に真面目にやれと怒られた

遠い昔の出来事だからですか?
それとも記憶力が乏しい為でしょうか?

理由はどうであれ、覚えていない事は話せません。

という訳で「部活動:中学編」は
残念ではありますが、これにて終了なのです。

中学校の部活動で剣道を始めるに当たり、道具を揃えなければいけません。

同級生であり、剣道の師匠でもある双子の栗田兄弟が教えてくれた
武道具屋さんは、隣町の池袋にある「建武堂」でした。

当時の建武堂は、硝子の引き戸だった記憶があります。

引き戸を開けると、土間の奥の畳の上で親父さんが竹刀を組んでいる。
そんな光景が、今でも目に浮かびます。

高校時代に訳あって剣道から離れた会長先生が、大学を卒業した数年後
たまたま建武堂の前を通り掛かり驚きました。

あの「引き戸」の建武堂が、なんとも立派な「ビル」になっていたのです。

事あれば訪れる池袋ではありましたが、賑わう通りから一本入った
建武堂を、偶然通ったその時まで見る事はありませんでした。

あれから40年近く経ち、時折立ち寄る建武堂の扉を開けると
あの頃と変わらない笑顔で、今もあの親父さんは迎えてくれるのです。

中学2年の時、初段を受審しました。
当時は中学2年生になって、初めて初段の受審資格を得る事が出来ました。

そういえば1級・・・受けていません。
1級を持っていなくても、良かったのでしょうか???

良く分かりませんが、たぶん大丈夫だったのでしょう。
取り敢えずこの件に関しては、今後ノーコメントとさせて頂きます。


実技審査・形審査は無事に済み、次はいよいよ筆記試験です。

まず藁半紙が配られ、移動式のホワイトボードに係りの先生が問題を書き
一斉に筆記試験スタートです。

皆、体育館の床に這いつくばり、ひたすら回答を書き込みます。

しかし、仲間と相談してもオッケー!
巡回する試験管の先生だって「ここはこうだ」と教えてくれます。

なんてフレンドリーな昇段審査会でしょう。
お陰で無事に、1発合格する事が出来たのです。

中学校の剣道部顧問は、体育教師の登坂先生。

剣道をしている姿を、見た記憶がありません。

たぶん剣道の経験が、なかったのであろうと思われます。

全くの初心者に一生懸命剣道を教えてくれたのは、顧問でも先輩でもなく
同級生の双子の兄弟「利夫」と「昭夫」

そして同じく同級生の「もっさん」でした。

三人は幼少の頃より、巣鴨警察署で剣道を習っていたのです。

自宅前の緩やかな坂道を上がると、その中学校はあります。

近隣の小学校から入学してきた生徒達は、すぐに仲の良いグループを作りますが、
江東区から豊島区に越したばかりです。

友達は一人もいませんでした。

部活動を決める時も一人悩んでいましたが、母の「剣道をやれば」の一言で決めました。
スポーツと言えば野球ばかりで正直、剣道は全く知りません。
しかし母親への「親孝行になれば」と思って入部した事を、今でも覚えています。

ちなみに、この中学校を卒業した芸能人の方がいらっしゃいます。

女優の「原田美恵子」「根岸季依」「横山めぐみ」
嵐の「松本潤」
漫画家の「永井豪」とドリフターズ「高木ブー」も、そうらしいと・・・

取り分け原田美恵子さんは、剣道部の先輩なのです。